聖書講座– いのちを愛し、どのように生きていくか –

いのちを愛し、どのように生きていくか

~いのちに対して“Yes”と言えること~

私たちは生きることへの憤りで抑圧的な世界を作り上げてしまいました。本当に愛する事ができる者を殺してしまうような世界を。愛であり、神の力、知恵であるイエス。いのちを愛し、どのように生きていくかを私たちに示されたそのイエスを。私は十字架に架けられたイエスの顔の中に神の顔を見るまではこの抑圧された世界は作り続けられると考えています。私たちはその真理の美しさに魅了される必要があります。そして人間に与えられた使命の美しさにも。神は愛によって神の創られた宇宙を苦しめられ、そうすることによって愛の中に答えを見出すことができるようになるであろうから。これこそ神にとって最も大切なもの―愛による自由ないのちの応答―が明らかになっていきます。私たちにとって最も意味のあることは、いのちに対して“Yes”と言えることです。宇宙は20億年の間、それを待ち続けています。

参加者のご感想

茅ヶ崎教会の信徒

この講座を受けて私は目から鱗が落ちるような新鮮な感銘をうけました。 と、言うのもいつも教会から御恵みを頂く事ばかり考えているという、受け身の私でしたから。 でも本当のキリスト教は、イエス様について行く事、自ら行動する事、この講座は私に大切な事を教えて下さいました。

茅ヶ崎教会の信徒

今までと違った視点で聖書を読むことが出来、これからの生活に生かして行きたいと思っています。

山手教会の信徒

今まで自分の中で観念的になりつつあった信仰が、この講座によって生きたも のになりそうです。これからの生活に生かしていきたいと思います。ありがとうございました。

山手教会の信徒

多くの示されたことを考え、共感したこともあり、感謝申し上げます。

山手教会の信徒

有難うございました。私の心に光りが差し込んで参りました。神の心と一体になれる日が来る事を信じています。

山手教会の信徒

8日間の講座ではありましたが内容が深く多くのことを学ばせていただきました。特に聖書と今の社会問題についてなんの違和感もなく結びついていることに驚かせられました。これからも、もっと日本の中そして世界の出来事に目をむけて参りたいと思っています。

聖書講座の紹介

貧しい人々を苦しめることを避け、助けることを選ぶ

自己紹介させていただきます。オーストラリア生まれの60代のカトリック司祭です。聖コロンバン会というアイルランド出身の小さな宣教会の者です。聖コロンバン会の多くの司祭は貧しい(貧しくさせられた)国々(パキスタン、ペルーなど)に住んでいるのでその人々の貧困、抑圧、搾取、苦しみ、期待を毎日見ています。

この貧困は豊かな国々が作ったものだと分かっています。
豊かな国々の政治的な、又経済的な政策が貧困を作っています。又、豊かな国々が貧しい(貧しくさせられた)国々を搾取していることによって豊かになったことも分かっています。この政策を決めるのは私たちの政治家、官僚、企業家などです。つまり私たちの両親、兄弟姉妹、子供たちと友達です。

貧しい人々の苦しみの責任は私たちにもあることが分かっています。
聖コロンバン会は世界中の殆どの修道会や宣教会と一緒に「貧しい人々のための優先」 (貧しい人たちを優先する)という選択をしました。政策を決める時に、仕事を決める時に、仕事のやりかたなどを決める時に、貧しい人のことを考えながらすべてのことを決定するということです。たとえば、この政策やこの仕事は貧しい人々にどんな影響を及ぼすかを考えて決定するということです。貧しい人々を苦しめることを避け、助けることを選ぶということです。


同じように、人間はどんどん地球・環境を破壊しています。
政策や仕事を決める時、地球・環境のことを考える必要があると私たちは考えます。

社会と信仰の分離

私の家は1500年前からキリスト者であるらしいのですが、もちろん、父も母も信者で、小中高はずっとミッションスクールに通っていました。神学校に入る日まで、日曜日のミサをさぼったのは1回だけです。それは病気のためでした。高校を卒業し、神学校に入学後、キリスト教のことが殆ど分かっていないことに気付きました。真面目な信者であるつもりだったのに…。神学校で、私はショックを受けたと同時に大変うれしく思いました。なぜなら初めてキリストを理解したからです。今でもこの理解を手助けしてくださった先生に感謝しています。

私が働いた小教区で感じたことですが、多くの信者さんは、イエスのこともカトリックの伝統もよくご存じなく、信仰は個人的なもので、殆ど社会(社会問題)に関心を持っていません。神学校に入る前の私と同じ日曜信者であることが多いと感じます。「すべての物は他のすべての物と繋がり合っている」ことを知りません。(宣教師はみんなによく伝えていないということでしょうか。)つまり、信仰と生活は別々なものとなっています。このよう状況は、 生教分離(生活と宗教の分離)と言うのでしょうか?それとも社信分離(社会と信仰の分離)でしょうか?

極端な話ですが、長崎の原爆の飛行機の機長はカトリック信者だったそうです。彼はカトリック信者、修道女も含めて、沢山殺しました。イエスの中心的な教えは「お互いに愛し合いなさい」、また「敵を愛しなさい」なのに機長はそれを無視して虐殺を起こしました。なぜでしょうか。残念ながらこういうことは珍しくありません。

第2バチカン公会議もこの問題を認めた:
 公会議は天上と地上とふたつの国の市民であるキリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう援助する。われわれがこの世に永続する国を持たず、未来の国を求めることを知って、それゆえに地上の義務を怠ってもよいと考える者はまちがっている。かれらは自分の受けた召命に応じて地上の義務を果たすべきことを、信仰そのものが強く命じていることを忘れているからである。これと反対に、宗教生活を単なる祭典の行事と若干の道徳的義務の遂行にすぎないと考え、地上の仕事は宗教生活と完全に無関係であるかのように、それに没頭してもよいと思う者も同様にまちがっている。
 多くの人に見られる信仰と日常生活の離反は現代の重大な誤りの一つと考えるべきである。すでに旧約において預言者はこのような醜聞を激しく糾弾し、それにも増して新約においてはイエズス・キリスト自身が重い罰を警告している。したがって一方には、職業的・社会的活動、他方には宗教生活を不当にも互いに対立させてはならない。世俗的義務を怠るキリスト者は隣人とさらには神自身に対する自分の義務を怠り、自分の永遠の救いを危うくする。むしろキリスト者は、職人として働いたキリストの模範に従い、人間的・家庭的・職業的・学問的・技術的努力を宗教的価値と結びつけ、いきいきとした一つのものとして結合することによって、自分のあらゆる地上的活動を行えることを喜ばなければならない。すべてのものを宗教的価値によって秩序づけることによって、すべてが神の栄光に向けて調整される。

第2バチカン公会議公文書 現代世界憲章
第1部 教会と人間の召命
第4章 現代世界における教会の任務(続)
43(教会がキリスト者を通して社会に提供する援助)

今(2013年)オーストラリアでは総理大臣も野党の党長もキリスト者です。(野党の党長はカトリック信者だ。)二人とも戦争や貧困から逃げてオーストラリアに住みたいと思うボート・ピープル(船の人々=船でオーストラリアに行く難民)を酷く扱っています。

聖書にある神様は何をなさったか、それをなぜなさったか、イエスも何をなさったか、それをなぜなさったか、イエスはなぜ死刑されたかを多くの信者は知りません。自分は天国に行ければよいと思い、信仰の立場からこの世の出来事について考えないことが多いと思うのです。

ジョン・レノンはこの人々のことを歌っていた:



Imagine there’s no heaven
 想像してごらん、天国なんかないと
It’s easy if you try
 その気になれば、やさしいこと
No hell below us
 ぼくらの下に、地獄がなく
Above us only sky
 上には、空があるだけだと
Imagine all the people
living for today 想像してごらん、みんなが今日のために生きていると
 


神様からいただいた賜物を使うこと

聖書の時代と同じように神様は現代においても活発です。
聖書の時代と同じように神様は人々に色々な賜物を授けてくださいます。聖霊の賜物(上知、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬)を私たち一人一人は神様からいただいています。しかし、多くの信者はその賜物を物置にしまっているようです。賜物を物置から取り出して、有意義に使うことをして欲しいと思います。
私は、皆さんにこの事を知って、行動していってほしいという願いを込めて、信仰と生活、宗教と社会を結び付けるために聖書講座を作って色々なところで開かせていただいております。

神様は自分の愛する子、イエスが苦しみを受けて死ぬ事を望んだのだろうか?

「神様が自分の愛する子が苦しみを受けて死ぬ事を望んだ」という事を聞いて、神様を信用、信頼できないという人々がいます。本当の愛する神様、愛である神様は、人が(特に自分の子供が)死んで欲しいと思うはずがないという考えです。これは正しいと思います。私たちも自分の子供が苦しみを受けて死んで欲しいとは思っていませんし、犯罪人になって処刑されて欲しいとも思いません。もし神様が、イエスが苦しみを受けて死ぬ事を望まなかったとして、何を望んでいたのでしょうか。イエスはどうしてこの世に来たのでしょうか。勿論のことですが、神様は愛であり、愛を教えるため、愛の具体的な形を見せるためにイエスを遣わせて下さったのです。
この講座を受講することで、皆さんは、「イエスはなぜ死ななければならなかったか」を理解できるようになると思います。

次回のセッションの準備として
出エジプト記 1章〜15章を読んで下さい。

キリスト教入門講座の推薦資料

「聖書と社会」聖書講座

はじめに   「聖書と社会」聖書講座の進め方

8回から10回のコースで構成しています。また、この講座には新共同訳を利用します。
各章では、はじめに、講師が講和をいたします。
その後、質疑応答の時間をとり、小グループに分かれて「わかちあい」をします。
「わかちあい」では、エクササイズ資料を使います。

わかちあい (エクササイズ)について

人は自分だけの努力で生きているわけではありません。周囲の人々、例えば、両親、親戚、周りの人々との関わりがあり、いつも周りの人々に支えられています。これも神様の計画です。
信仰もまた、他の人々の努力、犠牲によって伝わってきました。
神様が望んでいるのは私たちが人を愛することなので、人を愛すること、愛されることによって私たちは人として成長していきます。

ですので、この講座においても「人との関わり」を大事にしたいと考えています。
他の人々と関わり合い、人々の考えから学ぶことで、自分を知り、より成長することができるはずです。
また、聖書の時代と同じように神様は今日も働いていらっしゃいます。
参加者一人一人の中にも働いていらっしゃいます。参加者一人一人は色々な恵みをいただいているのです。
最新の成人の教育学によると勉強の中身を自分の物にするためには、他者との話し合いや分かち合いが非常に役に立つといわれています。
この事からも、この講座では、「わかちあい(エクササイズ)」を取り入れています。

ご参加の前に、聖コロンバン会のグリフィン神父さんの”キリスト教入門講座”に是非参加してください。
グリフィン神父さんの講座に参加した方はエクササイズに慣れると思います。
ご参加の皆さんからのフィードバックによって、エクササイズも講座全体もよりよいものにしていきたいと思います。

「聖書と社会」聖書講座で使う資料

この講座は次の本から沢⼭引用しています:

The Way To Peace
L. John Topel
Orbis Books, Maryknoll, New York, 1979

キリスト教以前のイエス
アルバート・ノーラン (著)、篠崎 栄 (翻訳)
新世社、1994年

次回のセッション(出エジプト)の準備として
出エジプト記 1 章 1 節〜15 章 21 節 を読んでおいて下さい。

1.旧約聖書

2.新約聖書

1.イエスの決断(1)
2.イエスの決断(2)
3.神の国:いやしとゆるし
4.神の国と金銭
5.神の国と威信、連帯、権力
6.神の国と政治
7.イエスの死を告げ知らせる